カレー沢薫の「日々、なりゆき、運任せ」│うっかり忘れについて考える
私は「カレー沢さんは締め切りを守るから偉い」と褒められることがたまにあるのだが、冷静に考えると「外に出る時服を着てるから偉い」と褒められているようなものな気がしてきた。
外にはこれだけ多くの人がいるのに、誰一人服を着忘れていない、これはもっと評価されるべきことである。
しかし、それが「当たり前」とされているため、この偉業に誰も気づかないし、偉業を惜しくも達成できなくなった者が過剰に怒られる社会になってしまった。
この偉業たちは「常識」と呼ばれている。
これが高まりすぎて社会側から戦力外通告される人ややり過ぎなビジネスマナーという新ジャンルが生まれてしまったような気もするが、最低限のラインが存在するのも確かである。
その代表としては「あいさつや返事をちゃんとする」そして「約束を守る」などがある。
私も社会にいたころ、あいさつぐらいはしていたのだが、今思うと「聞こえていなかった」可能性を否定できない。
相手に聞こえていない、もしくは脳内に直接語りかけるタイプのあいさつは「していない」と見なされるので、できるだけデカい声で言った方がいいが、あまり張り切りすぎると「返事だけがやたらいい奴」と思われるので加減が難しい。
だが、それよりも難易度が高い上に重要視されるのが「約束」であり、社会人になるとこれがよりシビアに求められる。
まず出社型のフルタイム会社員になった時点で「定時に出社する」という約束を週5で守らされたりするし、その中でも打ち合わせや会議などの約束がある。
そして何より全ての仕事には「期日」というものがあり、これが守れないと社会人としての資質を問われるどころか会社の信用ごと心中することになりかねない。
そうならぬよう気を付けている人も多いと思うが、一瞬の隙をついて我々を社会的に抹殺しようとしてくるのが「ド忘れ」という刺客である。
そんなわけで今回は「うっかり忘れについて考える」だ。
その前に「約束を守るのは社会の常識」と言っておいて何だが、私が関係している「出版業界」ほど、締切という名の約束に異常な感覚を持ち、雑に扱っている業界はない。
もはや「異常」などという言葉すら生ぬるく、一番穏当に言っても「クレイジー」なのだ。
もちろん、我々が出版社に提出する原稿にも期日があるのだが、まず我々は「偽締切」しか教えてもらえないのだ。
作家が締切を破るのはもはや前提なため作家には「シン締切」よりかなり早い「偽締切」が教えられるのである。
うっかり作家にシン締切を教えて間に合わなかった場合は「作家にガチ締切教える奴があるか」と何故か編集者の方が常識を疑われるレベルなのだ。
私の「締切は守っている」とて、締切当日の深夜、下手をすれば日付を越えてから出しており、一般企業であればアウトと見なされるし、少なくともクリスマスケーキが26日の深夜二時に届いて怒らない奴はいないだろう。
そんなクレイジーがゴナしてまたクレイジーする業界に浸かり切った私に、こうすればうっかり忘れは防げ、大切な約束や納期を守り、肩幅も3メートルになる、みたいな話ができるわけはない。
しかし、クレイジーをリバすればノーマルともいえる、私のマインドを参考にすれば、何故もの忘れが発生するのかがわかり、それを防ぐ手立てもわかるかもしれない。
正直、ド忘れは誰にでも起こるし、年をとればますます起こる、人間の能力でこれを完全に防ぐのは不可能だ。
だが、人間が1ミリも進化しない間、リマインダーツールは進化し続けており、これらを使えばうっかり忘れはかなり防げるはずだ。
しかし、これらのツールには共通して「人間が予定を入力しなければいけない」という致命的バグが残っており、一刻も早い脳とツールのBluetooth化が望まれている。
だが、そのツールに何故入力し忘れるかというと、「面倒くさい」という感情が優先されてしまったからであることは否めない。
つまりその事柄をどこかで「忘れてもいい」と軽んじているから忘れやすいということだ。
現に私は締切という約束の価値がもっとも軽い世界に15年在籍した結果「催促が来てから書けばいい」という発想に至り、締切を忘れる以前に、最初から覚えなくなってしまったのだ。
うっかり忘れを繰り返すことにより、周囲の人間が人力リマインダーになるという裏技だが、大体の会社はそういう奴にリマインダー要員をつけるより「どうでもいい仕事しか与えない」という対策を取るので給料シーフと言われたくなければこの作戦はお勧めしない。
つまり、うっかり忘れが多い人は「忘れても何とかなる」と考えている傾向があるので「これを忘れたら他人に迷惑をかける」「自分の信用が著しく落ちるなど」忘れることの重大性を今一度肝に銘じるか、今後の予定を腕に書き込むとよい、むしろ肝を取り出すよりこっちの方が簡単だ。
しかし全ての予定を書いていたら、余白がすぐなくなるし今度は「尻に書いた予定を確認してもらう要員」が必要になり、コンプラ違反を指摘される恐れがある。
つまり物事の「重要度」を見極めることが大切であり、絶対に忘れられない、忘れることで周囲への影響が甚大な物から体に書いていく、もしくはリマインダーに登録すればいい。
逆に言えば、忘れたところで自分にしか影響がないものに関してはそこまで神経質にならなくていい。
むしろ、ティッシュのことを気にしすぎて財布や首を忘れるなど、細かいことに気を取られたせいで大事なことを忘れてしまうこともある。
ちなみにこの連載の原稿は締切前日、または当日に催促が来ることが多いがこれは早い方であり「三日前に締切でした」と過去形でリマインドしてくる奴もいるし、編集も催促せず、こちらも原稿を出さずで数か月ストップしたり、そのまま連載が終わることすらある。
うっかり忘れが多く、なかなか改善できない人は、最初からこういう期日をあまり重んじられてない世界に入ると言う手もある。
逆に重んじるタイプは入らない方が良い、対峙する相手のフリースタイルぶりに自分の価値観と自我が足元から崩壊する恐れがある。
【カレー沢薫の「日々、なりゆき、運任せ」】
▶第1回 スマホとの付き合い方を考える
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