【悩み相談】いつも正論ばかり言って周りを怒らせる後輩との接し方(名越康文)
正論を言って人を怒らせてしまう後輩がいます。正論なので、もっともな事を言っているのですが直球すぎるので、もう少し言い方を変えたら相手は納得や理解してくれるのになぁと感じます。
でも本人は正論を言っているので、なぜ怒られないといけないのかと本人も怒っています。
なぜ正論は、受け入れられないのでしょうか? そこに上下関係や立場などがあるからでしょうか? プライドの問題でしょうか?よろしくお願い致します。
有効な反論ができないような主張を、私たちは「正論」と感じる
【名越先生の回答】
正論はなぜ受け入れられないのか。なかなか、興味深い問いだと思います。
そもそも、なぜ「正論」を口をすると、相手を怒らせることになるのでしょう? 「正論」というのは、文字通りに解釈すれば、「理にかなった正しい論」です。もしも誰もが納得せざるをえないような「理」にかなった「正しい」ことを主張されているのであれば、誰もそれに対して、怒りを覚えることはないはずです。
ただ裏を返せば、もしもその場にいる誰もが「そりゃあそうだね」と同意するほど「理にかなっている」のであれば、その意見は「正論」とは呼ばれないということなんですよね。
むしろ、「理屈は通っている。でも……」というモヤモヤとしたところが残るからこそ、それは「正論」と呼ばれる。少なくとも経験的には、僕らは「正論」という言葉を、そういうふうに使っています。<その場にいる人が「なんか、違うんだけどなあ」と感じながらも、それに対して有効な反論ができない>ような主張を、私たちは「正論」と感じるわけです。
そういう意味では、周囲の人を怒らせている、ということも含めて、その後輩さんが口にしているのはまさに「正論」なんですよね。
現実が変化し続けているかぎり「正しさ」も常に変化していく
なぜ「理にかなった正論」は、相手に「モヤモヤとした感じ」や「なんか違うんだけどなあ」という感覚を与えるのでしょうか? それは、そもそも「正しさ」というのが、普遍的なものではないからだと思います。
これは別に、ニヒリズムで言っているわけではありません。「今、この場において」とか「私の個人的な判断においては」という限定条件をつければ、正しいことと正しくないことの区別をつけることは、(もちろんそれでも、簡単なことではありませんが)不可能ではありません。
しかし、時間と空間を限定せず、「常に、どこでも正しい」言葉は、少なくとも私たちが使う言葉の中には存在しません。いつもなら納得できない意見でも、ある特定の場においては、「なるほどそうか」とすんなり受け入れられることもある。逆に、「一般的には正しい」言説が、「今、この瞬間」においては、とんでもない間違いだと見なされることもあるでしょう。
それは結局、現実の時間や空間(場)は、常に変化し続けているからです。現実が変化し続けている以上、「正しさ」もまた、常に変化せざるをえない。
それゆえにいわゆる理にかなった「王道のような正論」は、現実の正に今の現場の中では微妙なズレとなって感じられ、そのことに納得できない誰かをたびたび苛立たせることになるのです。
相手が「正論を言う」理由を考えるとヒントが見えてくる
あらゆる正しさは相対的なものだし、「今、ここ」に限定しない限り、「正しさ」は成立しない。そのことを共有しない限り、人と人との対話は成立しません。
別の言い方をすれば、AさんとBさんとの間でコミュニケーションが成り立つのは「Aさんの正しさ」と「Bさんの正しさ」の間で、互いが合意できる範囲の「正しさ」にたどり着いた時だけだということですね。
少なくとも、ご質問の後輩の方のように、ただただ相手に正論をぶつけ続けることは、現場での「まともなコミュニケーション」を、だんだんと難しいものにしていくのでしょう。
そこで、第三者の立場にあるあなたが、考えるべきことの一つは、なぜこの人は、相手に「正論」をぶつけようとするのか? という問いです。
単に、コミュニケーション能力が不足しているからなのか? それとも「仕事で成果を上げるには、こうするしかない!」といった何らかの考えに信念を持っておられるがあまり、相手の「正しさ」に配慮するだけの余裕を失っているのか?
もちろん、そういう可能性も大いにあります。ただ、「いつも相手を怒らせている」ということから、以下のようなことも一つの可能性として頭に入れたほうがいいと思いました。
それは彼が意識的か、無意識的かは別にして、相手を刺激するために、あえて「正論」をぶつけている、という可能性です。
私たちの言動は、どんなことがあっても「百パーセントの正しさ」や「完璧な整合性」を担保することができません。というよりも、ある一定上の時間・空間軸の中で見れば、ほぼすべての人間の言動は、矛盾に満ち満ちています。
旅行に行って、牧場で牛さんがのんびり過ごしている様子を見て癒された人が、次の日に高級ステーキ店で特上牛ステーキに舌鼓を打っていた。……私たちは誰しも、その程度の他愛もないような(しかし、ある視点から見たら非常に深刻な)矛盾を抱えて生きています。
それゆえに、相手をいらだたせたい人にとって、「正論」は強力な武器になります。
人は自分が矛盾に満ちた存在であることを「なるべく見ないように」して生きており、「正論」は、そうした矛盾をあぶり出し、相手をいらだたせる格好の道具になりうるのです。
実際にこの後輩の方がなぜ正論を口にしているのかひとまず脇に置くとして、「この人はなぜ正論を言うのか?」という問いからは、人間存在やコミュニケーションの基本に関係する、重要なヒントが見えてくるように思います。
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