【悩み相談】「私って、頑張りすぎですか?」(名越康文)
どこまで頑張れば幸せに生きられる?
「生きていく基準」がはっきりしない時代だと感じます。人生、どこまで頑張ればOKなのか。勉強して、大学に行って、仕事して、恋愛して、結婚して、子供を育てて……それなりに楽しいこともあるけれど、どれだけやっても、常に「もっと頑張れ」と言われているような気がする。何を、どこまで頑張れば幸せに生きられるんでしょうか?
寄る辺(よるべ)のない不安は昔も今も変わらない
【名越先生の回答】
何をやっていても、「もっと頑張れ」と急がされているような感じがする。何を、どれだけやればいいのかわからない……。こういう悩みの背景には間違いなく、社会の価値観が多様化してしまって、「これだけやればOK」という基準みたいなものが、見えづらくなっていることがあります。
時代が進む中で、私たちは少しずつ、社会的な自由を獲得してきました。ところがそれと同時に、「こうあるべき」という人生の基準を失い、その結果、なんとなく寄る辺のない不安が増している。そういう側面は、確かにあるのだと思います。
ただ一方で、「それって、昔の人も、そう感じていたんじゃないか」と僕は考えています。明治の人は明治の人で、江戸時代の人は江戸時代の人で、それぞれ、「何を基準にして生きていけばいいんだろう?」と不安に思っていたし「昔はもっとわかりやすくていい時代だったな」とぼやいていたんじゃないのかな、と思うんです。
占いは何のためにあるか
ちょっと脱線しちゃうかもしれませんが、昔から多くの人が「占い」を必要としていました。それは、どれほど規範がしっかりしていた社会に生きていても、人は「このままでいんだろうか」「自分はどう生きていけばいいんだろう」という寄る辺ない不安を抱えていた証拠といえるんじゃないかと思うんです。
それがなぜ必要とされたかといえば、人が判断を下す時には、やはり何らかの「指標」が必要だったからだと思うんです。
人は、自分の指針だけでは不安定で、自分の外側にある種の「指標」を見ておかないと、人生を歩いていくことはほとんどできないと言ってよいとおもいます。「30代ではこんなことが起きますよ」「40代はこんな人生になります」という占いの「ご宣託」というのは、別に「未来を言い当てる」ことがその主たる目的ではありません。ここは、無意識のうちに誤解しがちなポイントです。
思い出してみていただきたいのですが、私たちが「当たってる!」と驚いてしまうのは、我々の「過去」についてズバリ当てられている、と感じた時です。けっして未来についてではありません。未来についての宣託については、それを一つの「指標」として、人生をよりよくしていくためにあるものです。少なくとも私はそう真摯に捉えています。
またこれは、占いに限ったことではありません。宗教を持つ人であれば、信じる神や仏が、一つの指標になる。現代においては、多くの方が「お金」を指標にしているかもしれません。貯金がいくらだ、子供の進学のためにいくら、老後の資金はこれくらい必要だ……というのも、「自分の外側にある指標」という意味では、占いや宗教と、同じような役割を果たしているのかもしれません。
しかしながら「指標だけ」では人生は満たされない
人は指標なしでは生きていけない。そのことを確認した上で、僕は実はそうした指標「だけ」では十分ではない、と考えています。「こういう方向に進んでいくといいよ」という指標があったとしても、やはり人は、得体のしれない寄る辺のなさや、漠然とした不安から自由になることはできないのです。
例えば「年収1000万円」ということが、人として達成しなければいけない基準だと心の底から信じている人がいたとします。では、その目標をクリアしたら、不安は消えるでしょうか? 否。むしろ、クリアする前よりも、不安は深まってしまう。少なくとも、その可能性は高いと僕は思います。
というよりも、「年収1000万円」に達していなくて、それを目指して頑張っているうちは大丈夫なんです。その確たる目標は、確かな指標になりますから。そこに向けて頑張ってさえいれば、寄る辺のない不安から目をそらすことができます。
でも、それを達成してしまったあとには、どうしたって不安と向き合わざるを得なくなる。なまじ、何かを「確たる基準」として生きてきた人は、それを達成したり、「ああ、そろそろ達成できそうだな」という段階にきたときには、猛烈な不安に陥ることになります。
これは恋愛でも、子育てでも、ビジネスでも同じだと思います。目的意識にしても、指標にしても、それが力を発揮されるのは、「それが達成されない間だけ」なんです。どれだけ確たる目的意識や指標を設定したとしても、それが満たされたとき、再び人は、ある種の空虚さに襲われることになるんです。
大切なのは「変化する」ということ
大切なのは「変化する」ということ
結局のところ、満たされた人生というのは、「いま、この瞬間の充実」しかないんです。「3年前のあのとき、あの人からこんなことを言われてうれしかったなあ」ということはもちろんあるけれど、それは決して「いま、この瞬間の充実」にはつながりません。
私たちは日々の生活の中で、ふと気づくと「毎日、同じことを繰り返している」という倦怠感を覚えています。実はこれこそが、「今、この瞬間の充実」を失いつつあるサインなんです。
というのは「同じ」という感覚は、過去の出来事と、今の自分を照らし合わせ、比較することで初めて生じる感覚だからです。退屈というのは、私たちが「過去の自分」にスポットライトをあてて、「今」を見失いつつあることのサインだといってもいいかもしれない。これが、倦怠感の根源にあるものです。
裏を返せば、過去の自分と今とを比較することをやめれば、私たちは倦怠感から一歩抜け出すことができる、ということです。
大切なのはそこに止まり、思い煩うことをやめる、ということです。立ち止まることをやめて、変化する方向に歩を進める。そうやって変化が起きれば、人は必ず、充実感を覚える。
「変わる」というと、中には「すごく大変なこと」だと思っている人もいるんですが、変わる時って、感覚的にはすごく軽やかで、明るいものなんです。そういうときって「今のままの自分でいいんだよ」という受容の感覚と「今、この瞬間から始めていいんだよ」という勇気が同時にやってくる、そういう感じなんです。
「退屈沼」の無限ループから抜け出す
「今のままの自分でいいんだよ」という感覚と、「今、この瞬間から始めていいんだよ」という勇気と言うのは、実はセットです。今のままでいい、このままでいいという受け入れられた感覚がなければ、今、この瞬間から始めようという勇気は、決して湧いてはきません。
その2つが同時にあって初めて、人は歩きはじめることができるんですね。
人生が停滞しているときや、停滞するのではないかと不安に思っているときというのは、だいたい私たちは同じような感情の動きをトレースして、繰り返している。「退屈の沼」で無限ループを繰り返しているんです。
厄介なのは、その沼は、生暖かくて、ある意味では居心地がよいということです。停滞して動きがないということは、後退したり、失敗したりすることが少ないということですから、ある意味では居心地がよい。
ただ、人はずっと停滞したまま、生きていくことはできないんです。
僕の経験上、退屈というのは、自己受容度を著しく低下させます。
「なんだかつまらない」という気持ちは、そのまま「私ってつまらないやつだ」につながってしまう。そうです、無意識の世界には主語が無いので、状況がつまらない、となれば、私はつまらない(人間だ)にすぐ転換されてしまうのです。
そうなると、とりあえず自分の「手持ち」の材料で及第点を取ろうとし始める。
根本的なところで自分に自信が持てないから「一か八か」の勝負ができず、過去のストックから「60点か70点の自分」を引っ張り出してきて、それでなんとかその場を乗り切ろうとする。
でも、それは一番中途半端な、つまり「退屈」な選択肢なので、さらに自分が嫌になっていってしまう。そういう悪循環があるんですね。
日々研究し、工夫を重ねる
では、こうした退屈のループから抜け出すために必要なことは何か。それは一言で言えば「工夫する」ということだと思うんです。
工夫といっても、けっして大掛かりなことをやれというのではないんです。むしろ逆で、センスのいい工夫とは、「ちょっとした工夫」のほうだと言っても良いでしょう。日々の仕事の中で少しだけ質を上げる、やりやすくする、流れを良くする。大きな目で見たらほとんど足踏みしているようでもぜんぜんかまわないから、とにかく、自分が手をつけられる範囲で、小さなことに気付いて小さな改善をしてゆくということです。
実は、人生に退屈しないための方法というのは、これが肝なんです。
そして、僕は何をやるにしても、できるだけ一流の人、プロの人と一緒にやる、ということをお勧めしています。それは何も、「高いレベルでやらないと意味がない」ということじゃないんです。自分よりもはるかに実力が上の人と一緒の現場で仕事をすると、自分の力量のなさがわかって焦る。この「焦り」が大事なんですね。「やばい、このままじゃまずい」と思うと、人は自然と、工夫をし始めますから。
本当のプロというのは、必ず日々、工夫を重ねています。「百年変わらぬ味」みたいなことが書いてある看板を見かけますが、そこで働いている職人さんに聞けば必ず、「百年変わらない味」を提供するために、毎日、工夫を重ねている、と答えるはずです。
日々研究し、工夫を重ねる。それだけが、人生で退屈しない道なんです。
「及第点を出す技術」を身に着けてしまうというのは、ある意味で地獄です。いつも、「70点」を出すことができると、人は工夫をしなくなっていくから。工夫しなくなった人の人生は、どれだけお金や知識があっても、暗く、淀んでいきます。
もちろん、やるからには成功したほうがいいし、人から高い評価が得られたほうがいい。でも大事なのは、自分が工夫している、工夫したくてたまらない、という衝動のほうなんです。それがある限り、人はぜんぜん退屈しないから。
実際、「新しいこと」をやるというのは、クオリティを落とす原因になりえます。
でもそれをあえてやる衝動が大事だったりするんですね。
身体の内と外の間で
「工夫」によって私たちが満たされるのはなぜか。それはたぶん、「工夫」ということが、私たちの身体の内側の外側とを隔てる「間」で起きていることだからです。
ちょっとややこしい話になってしまうかもしれませんが、私たちの内側には、感情や思考や、なによりも感覚があります。一方で、「目的」や「指標」というのは、私たちの身体の外側の世界で起きていることですね。でも、「工夫」というのは、どこまでいっても「内側」と「外側」の境界線、接触点でしか、起きえないものなんです。
この「間」ということを突き詰めていくと、たとえばメルロ・ポンティが言っていた「間身体性」なんかにもつながってくるかもしれないけれど、とにかくここで大事なのは、「間」の感覚です。
僕が墓参りとか、寺社巡りを進めるのも、美術館に行ったり、雰囲気のいい喫茶店に行ったりすることをお勧めするのも、この「間」というか「空間」というか、そういう、身体の内側でも、外側でもない感覚をつかんでほしいからなんです。その感覚さえつかめば、人は一人で歩いていけるんです。
※この記事は公式メルマガ「生きるための対話」よりお届けします。
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1960年、奈良県生まれ。精神科医。臨床に携わる一方で、テレビ・ラジオでコメンテーター、映画評論、漫画分析など様々な分野で活躍中。著書に『毎日トクしている人の秘密』(PHP、2012)、『自分を支える心の技法 対人関係を変える9つのレッスン』(医学書院、2012)、『Solo Time 「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である』(夜間飛行、2017)などがある。 2019年より会員制ネットTV「シークレットトーク」を配信中。
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