競走馬を載せて全国を駆け巡る“馬運車”の仕事。 この道30年のドライバーが語る
世の中には車を使って運ぶ仕事がたくさんあります。物を運ぶ宅配便、人を運ぶタクシー。中でも、意外なものを運ぶ運送業といえば競走馬を運ぶ「馬運車」のドライバー(運転手)ではないでしょうか。
馬運車とは、その名の通り競馬で使う競走馬を運ぶ車のこと。体重500キロにも及ぶ競走馬の価値は数億円にのぼるケースも珍しくありません。その一方、馬は繊細な生き物であり、時として人間が想像できないリスクも……。
そんな馬運車のドライバーはどんな工夫をし、どんな気持ちで馬を送り届けるのでしょうか。30年以上の馬運車ドライバー経験を持つ、日本馬匹輸送自動車株式会社の小泉弘さんにお話を伺いました。
ブレーキを踏む力の加減で、馬と息を合わせる
―馬運車のドライバーってどんなお仕事なんですか。
「同乗して馬を世話してくれる厩務員さんと協力して、馬を競馬場やトレーニングセンター、牧場などに送り届ける仕事です。

(日本馬匹輸送自動車株式会社より提供)
運転中に注意することは、急発進や急ブレーキ。これは絶対にダメです。馬がお尻をついてケガをしてしまいます。ですので、私たちはブレーキを全部踏む前に、軽く踏むんです。それがサインになって馬も『あ、ブレーキ踏むな』とわかってくれる。すると馬もブレーキのタイミングで足を踏ん張れるんです」
──競馬場は全国にあります。時間がかかるのでは?
「小倉競馬場までだと17~18時間かかります。札幌競馬場は津軽海峡をカーフェリーで渡るので、24時間かかってしまいますね。もっとも、時間にはかなりの余裕を持っています。運転を急ぐ必要がないのがこの仕事のいいところです」
──それでもかなりの長旅ですね……。馬を載せているときは、どれくらいのスピードで走るのでしょうか?

(日本馬匹輸送自動車株式会社より提供)
「常に制限速度は守っていますが、30年ほど前の一般道では時速40〜50キロくらいでした。昔の馬運車はエアサスペンションを積んでいなかったんです。だから下を見て、路面の穴や凸凹をよけながらゆっくり走っていましたね。今では時速60キロくらい出すこともあります。ちなみに高速道路では時速80キロ出しますよ」
全国の「信号のクセ」をつかむのに3年かかった

(日本馬匹輸送自動車株式会社より提供)
──ちなみに輸送するときの「難関」ってありますか?
「乗り始めてしばらくは交差点が怖かったです。先ほど申し上げたように、馬運車は急ブレーキができないので、すぐに停まれません。交差点の信号が変わるタイミングを予測して、渡れるかどうかを判断しなくてはいけないんです。その判断が外れると、交差点の半分ぐらいまで行って、無理やり止まることにならざるを得ません。そうなると、周りの車からひんしゅくを買うこともありました」
──変わった車だし、目立ちますよね。僕なら逃げたくなる……
「信号機には場所によって、変わるタイミングに“クセ”があるんですよ。黄色に変わってから赤にすぐ変わるところや、なかなか青から黄色に変わらないところとか。交差点でブレーキを踏んだら停まれるか停まれないか、その感覚をつかむまでに時間はかかりました。よく行く競馬場への経路だと1年、あまり行かないローカルの競馬場への経路だと3年くらいですかね」
馬が興奮したら一大事。配慮すべきことはたくさんある
──馬を乗せるときに配慮することはありますか。
「オス(牡馬)はメス(牝馬)のお尻を見ると興奮しちゃうので、一緒に積む場合、オスは前、メスは後ろに積みます。ときにオスばかりを積むとか、メスばかりで積むこともありますね」

(日本馬匹輸送自動車株式会社より提供)
──オスの情けなさが身に染みますね。ちなみに「馬が暴れて大変」とかはないですか?
「馬室にカメラを設置して、運転席のモニターで馬の様子を常時確認しているんです。『暴れそうだな』と思ったら同乗している担当の厩務員さんが馬をなだめに行くんです。だから、馬が暴れることはめったにありません。ただ、いったん暴れ出したら大変ですよ。とにかく暴れ終わるまで、見守ることしかできません」
──暴れたら、見守るだけ?
「だって暴れているところに入ったら、こちらの命も危ない。暴れていても、10分もすれば疲れてやめますから。でも、馬運車は壊れますが」
──えっ!壊れちゃうんですか?
「もちろん、壁やシャーシ(自動車の枠組部分)が壊れることまではありませんが(笑)、500キロもある馬がバタバタやっていれば、ちょっとした備品壊れちゃいますよ。停まったときに枠を広げてやって、介抱します。中でひっくり返ったりして、広げてやらないと馬が立てないので。そのときは急いで駐車した上で処置します。本当に滅多にないことなんだけど、心の準備というのか、そういうのは欠かせませんね」
──ちなみに競走馬って暑いとダメって聞きますが。
「汗をかくと馬はかゆがって暴れるので、エアコンを20度の設定にします。ただ馬たちの体温も高いので、それでようやく車内が23~24度ぐらいになります」

(日本馬匹輸送自動車株式会社より提供)
勝つ馬は馬運車で暴れない

(日本馬匹輸送自動車株式会社より提供)
──有名な馬を担当されたことはありますか?
「日本ダービーで勝った馬を帰りに積んだこともあります。でも意識していないので、名前も覚えていませんね。意識しているとかえって萎縮して平常心でなくなってしまうので。それに、すべての馬の扱いは一緒にしています。どんな馬でも馬主さんや関係者さんが大切にしている馬ですから、区別はしません」
──同じように接する……。
「ただね、ダービーなどの大レースを勝つ馬は、馬運車の中で暴れるなどの余計なことを一切しませんね。暴れたらそれでエネルギーを消耗しちゃうわけですから」
──馬券を買うなら馬運車を見るといいのかもしれませんね(笑)
「レースで結果を出す馬は、不思議なぐらいにそういうくだらない力は使わないですね。ただ、落ち着いているのか、単に元気がないのかは僕には区別できませんが(笑)」
長い距離を走って、最後にエンジンを切る達成感
──この仕事をしていて、辛かったことはなんですか?
「土日休めないことです。2人の子どもがいるんですけど、子どものイベントはみんな土日なので運動会もほとんど見に行けた記憶がないですね」
──中央競馬の開催は土日ですから……
「雨で月曜日に運動会が順延になったときに、1度だけ見に行ったことがあるんです。あれは思い出深いです」
──逆にこの仕事でよかったな、と思ったことはなんですか?
「全国を回れるのは楽しいですね。地方のおいしいものも食べられます」
──楽しそう、全国を飛び回るお仕事ならではの特権だ。
「あとは仕事でちゃんと馬を送り出せたときです。長い距離を走って、着いてエンジンを切るときの静けさ。10何時間もずっと点いていたエンジンを切るとスーッとするんですよね。そして馬をきれいに下ろし終わると、本当にホッとします。それは昔もいまも一緒ですね」
──本当にお疲れさまでした、ですね。
「馬運車から馬と荷物をキレイに下ろすまでが私の責任ですから」
大切なのは技術と仕事人の「心意気」
採用試験の競争率はなんと常に10倍を超えているとのこと。採用された後も、馬運車の運転には3か月程度訓練が必要で、習熟するには何年もかかるそうです。バスやトラックの運転を経験していた人でも最初は苦戦するとか。デリケートな競走馬をミスなく運ぶ難題を当たり前のようにやってのける彼らは、決して当たり前ではない運転技術と粘り強く穏やかな仕事人の心意気を持っていました。
小泉弘(こいずみ ひろし)
日本馬匹輸送自動車株式会社社長室長。運送業を経験した後に入社し、30年以上馬運車ドライバーとして活躍してきた。内勤が中心の現在も、繁忙期は運転業務にあたっている。
(取材・文/辰井裕紀、撮影/水野ただのり、編集/斎藤充博(プレスラボ))
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