【街で見かけた「働く人」劇場】大地がごとく空気を読める、個人経営の居酒屋店主さんの話
筆者(私)は先日、失恋しました。付き合っているわけでもなく、会って会話をする際のみ「この人いいな」と思う程度の相手だったのですが、少しでも恋愛感情を抱いた相手から「拒否」されるのはツラいことであり、それは男も女も同じでしょう。
そんな時……つまり失恋したら、飲みたくなりますよね。ひとりで静かに飲むこともできるし、愚痴をこぼしたくなったら「大将(店長。マスター。呼び方は、なんでもイイか)」が相手をしてくれるような、小規模で年季の入った個人経営の居酒屋さんで。
ということで、筆者行きつけの、個人経営居酒屋に行きました。
当日は、どういういきさつだったのかを忘れてしまったのですが、なぜか「失恋した相手」と一緒にお店に行ったのです。さすがに、相手も私も、もう大人ですので、店内で声を荒げることはなかったものの「静かなる戦い」は繰り広げられました。結果、相手は、私とお金を置いて帰りました。
その後、店内で、ひとりで、酒を無言で飲む筆者。
この店の店長と筆者は、「いつもカワイイねーはいよホッケいっちょう! のどに骨さすんじゃねえぞー」なんてお世辞交じりの軽い調子で話しかけてくれ「これ焦げすぎです店長」なんて軽口をたたける間柄。
相手が帰る前に注文していたホッケを置いてくれる店長。その横には、温かいのと、冷たいの2本のおしぼり。思わず目をあげて店長を見ると、ものすごくおだやかな微笑みを返してくれ、そのまますっと厨房へともどっていきます。
泣きはらした目をひやす、暖かさをもらう、などこういう状況でいろいろな使い方ができる2本。それをごく自然に置いていってくれました。
おそらく話しかけられる雰囲気ではなかった筆者に対し、店長はそのあとも、お酒のグラスが空に近くなればジェスチャーだけで「もっと飲むか?」と伝えてくれます。絶妙なタイミングでお水のコップを置いていってくれるし、踏み込んでこないようにしつつも、必要なものを必要なときに差し出してくれたのでした。
おかげで、ゆったりと一人の時間を過ごすことができ、氷のように冷え切って固まっていた筆者の気持ちはいくぶんかやわらぎました。それはひとえに、こちらの空気をきっちり読みつつひとりにしておいてくれて、でもほしいサポートはすべて提供してくれる店長のおかげ。
長いあいだお酒を出すお仕事をしてきて、幾多のお客さんを見てきた彼の経験、そして眼力によるものなのでしょう。そして、ビジネスの部分を少しだけ踏み越えた、暖かい彼の心の成せるわざでしょう。
でも、会計を終えた後に「その(相手が置いていった)お金は、大切にね」と言われたことについてだけは「余計だな」と思いました。あと、やっぱりホッケは少し焦げていました。

1988年生まれ。フリーライター。武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科を卒業後、2年ほど美術業界を転々としていたが現在は主にWEB上で文章を書き生計を立てている。女性向けコラム、インタビュー記事、グルメレポート、体験記事など、幅広い分野で執筆活動を行う。